2008年11月07日

ナタリー・デセイ[オペラNEWS]

アメリカのメジャー雑誌、『Opera News』にナタリー・デセイが掲載されました。
下記URLからオンライン版でご覧頂けます。彼女の魅力について語られています。
http://www.metoperafamily.org/operanews/issue/article.aspx?id=5022

≪和訳≫
 オペラ愛好家にとって我慢できるものはたくさんあるが、退屈することは普通その中に含まれていない。オペラ・ハウスの座席に座り、「まったく、何て退屈で、平凡で、時代遅れなんだ。こんなことなら家でTVドラマでも見ていた方がよかった。」などと考えている時、ナタリー・デセイの存在を思い出せば、瞬時に心をなだめることができる。デセイのすばらしい献身に匹敵する演技者が、過去30年間にいただろうか?彼女のすることなすことすべてが、くらくらするほど新鮮に感じられる。1997−98年シーズンにメトでツェルビネッタを歌ったとき、彼女は”Gross-mächtige Prinzessin”のどの箇所も注意深く折り合いをつけていたのだが、客席にいた我々には微塵も感じさせなかった。演じながら彼女は次第にそれを埋め合わせていったようだ。この役を引き受けて、彼女はスーブレット(小生意気で色っぽい小間使いの役)のマンネリズムの長年の蓄積を爆破して、脇筋に何度か余計に現れる、むしろ悲しい打ちのめされた少女として、ツェルビネッタのまったく独創的な概念をまとって現れた。

 我々は皆、繰り返し回り続ける“我がデセイ名場面集”を頭の中に持っている。特に私が挙げたいのは、シカゴ・リリック・オペラで彼女がやった「アルチーナ」のモルガーナだ。気を引きたいと願い続けていた男のからっぽのタキシードを抱きしめ、彼女は舞台をころげまわりながら“Tornami a vagheggiar”を歌った。それからメトの1998年の「ホフマン物語」のオリンピアだ。妊娠がかなり進んだ時期にあったにかかわらず、聞き取れないハイG以外のすべてを完璧にやりながら、驚嘆すべき肉体的妙技を実行した。その純粋な聴きどころも、同様に私の心から消すことができない。ルイ・ラングレとエイジ・オブ・エンライトメント管弦楽団共演で収録された彼女の”Martern aller Arten”を考えてみて欲しい。ここで彼女は、コンスタンツェの自己欺瞞を歌唱的にみごとに捕らえている。すべての偉大な歌手と同じく、彼女の歌はあたかも気高いスピーチのようだ。
デセイの経歴の中でも最も注目すべき業績のひとつは、ソプラノ・レジェロの垣根を取り払った方法である。かつて、それはオリンピア達や夜の女王達などのたゆまぬダイエットを意味した。これらの役を演じることは、歌唱的に高く評価されることかもしれないが、役の演技という意味においては、一般的にはそれほど真剣に考慮されることはなかった。デセイは、アーティストの想像力は声質のいかなる生来の限界にも勝ることを、きっぱりと証明した。2007年の秋、デセイはメアリー・ツィンマーマン演出の新プロダクション「ランメルモールのルチア」で、メトのシーズン開幕(ピーター・ゲルプ総裁体制での2シーズン目)を飾った。インタビューで、デセイは自分が成し遂げようとしていたことを率直に語っている。それは、恐ろしい、掘り下げられた、本物の女優のルチアである。彼女が自分を歌手である前に女優だと定義していることを示唆することで、彼女の賛美者の中には当惑する者もいた。しかし、デセイのパフォーマンスの真のすばらしさは、一方が他方を覆うこともなく、演技と歌唱が奇跡的に、現実離れして組み合わさっていることにあるのだ。彼女は多くのクラシックのベルカント役も克服してきた。ルチア、アミーナ、「連隊の娘」のマリーを、自分のものとすることで可能な最高の形にして。1950年代と60年代のベルカント復活の時代を支配した電流を通すようなソプラノの声に思いをめぐらすとき、彼女の功績はまさに驚異的である。得てして批評家は、あたかも偉大なアーティストは過去の誰かになぞらえて定義される必要があるかのように無意味な比較に走りたがるが、デセイは実にいかなる演技者の影の中にも立脚していないと言える。
 彼女とこのことについて話し合ったことはないが、彼女が舞台に足を踏み出すとき、ひとつのことが彼女の頭の中にあるのではないか。それは観客である。実際にお金を払って劇場の席に座り、別の世界に連れていってくれることを願っている人々にとって、こんなにもすてきな贈り物となるパフォーマンスを見せてくれそうなスターを、私は今日他に知らない。私自身はレナータ・テバルディを劇場でじかに見る喜びに浴したことはないが、オペラ・ニュースの編集長F.ポール・ドリスコルはあるそうだ。彼が言うには、テバルディは劇場にいるひとりひとりすべてに、彼女のパフォーマンスが自分だけに向けて発信されていると感じさせる能力があったそうだ。モーリーン・フォレスター、マギー・スミス、テレサ・ストラータスといった、これまで私が見た偉大なアーティストの多くにその能力があると思うが、ナタリー・デセイも議論の余地なくそのひとりである。彼女にとって、全力で演じない公演などありえないかのようである。しかし私にはいつも、舞台上のアーティストの背後にもうひとりのアーティストが潜んでいて、歌唱と身体の華々しさを突き抜けて、共謀して我々に「さあ、これはあなただけのためよ」といっているような感じがするのだ。そして、まったく、我々はそれを感謝しつつ受け容れてしまうのだ。
posted by Japan Arts at 12:30 | オペラNEWS | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。