2011年01月28日

グレギーナ、ガルージンの「トゥーランドット」[マリインスキー・オペラ]

ゲルギエフ指揮 マリインスキー歌劇場管弦楽団「トゥーランドット」(7/2 サンクトペテルブルグ)
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 圧倒的なトーランドット、精悍なカラフ、強靭でドラマティックなオーケストラ……すべての「強度」が完璧に溶け合い、最高のプッチーニ・オペラが実現されていた夜。歌手とマエストロの至芸に、これほど胸を打たれたことはなかった。そして、舞台とピットにいた音楽家全員が、この物語と音楽を心から愛していた。そのエネルギーの総和が、爆発物のような炎となって観衆を驚かせたのだ。大きな衝撃は、白夜という非日常的な体験もあいまって、しばらく耳から離れなかったほどだ。
 トゥーランドット役のマリア・グレギーナは、現在この「悪女」を歌わせたら右に出るものなしのハマリ役で、METを始め、スペインやドイツでも、複数の演出家のもとでトゥーランドットを歌っている。ゼッフィレッリ版で歌う彼女を、METのステージ映像で見たとき、華麗な高音とカリスマ的な存在感に驚いたが、マリインスキーでの生の歌声は想像を超えていた。強靭で鋭く、垂直にたちのぼり、その余韻はホール全体を豊かに包む。グレギーナ自身が「わたしの声は、三階席の一番後ろで聞くと一番よく響くのよ」と語っていたが、とにかく声の輪郭が他のソプラノより並はずれて大きいのだ。音域によってムラもなく、高音域のみならず、低音域でもジワジワとトゥーランドットの「凄み」を伝えてくる。まさに、本物のトゥーランドット!
そして、疲れを知らない! 一体どういう体力と精神力の持ち主なのだろう? トゥーランドットが祖先の悲劇を語る「この宮殿で」の幽玄な表現力はもちろん、凄かったのは、求婚者カラフに「三つの謎」を問うシーンだ。ソプラノにとっては緊張と苛酷さを最高度に強いるこのシーンで、グレギーナは全く揺らがなかった。余裕さえ感じさせるカラフへの「問い」の場面は、この夜のハイライトのひとつだった。
 対するカラフ役のウラディーミル・ガルージンは、脂の乗り切ったグレギーナに相応しいドラマティック・テノール。昨年のボリショイ・オペラでの狂気に満ちたゲルマン役(「スペードの女王」)が記憶に新しいが、プッチーニ・テノールとしても全てを兼ね添えていた。「泣くな、リュー」「誰も寝てはならぬ」などのハイライトでは、とにかく満場を瞬時に魅了してしまう。声楽的にはもちろん、演劇的な「ひらめき」があるのだ。精悍でロマンティックに甘さも感じさせる「誰も寝てはならぬ」は、この歌を格別に楽しみにしている観客にとっても、100%満足のいくものだったと思う。ラスト近く、動揺して威厳を失うトゥーランドットに、急にキスをするシーンもドキドキするほどよかった。
 『トゥーランドット』には、極端に古いものと新しいものが混在している。歴史設定としての「昔昔の中国」という「古さ」と、プッチーニの遺作に遺された和声的・構造的な「新しさ」だ。考古学的な時間と、未来的・モダニズム的な時間を、ゲルギエフは見事に融和し、音響化していた。実際、あまりに自然で素晴らしい音楽なので、心は自然に物語に集中してしまう。何より「書かれた物語」としての『トゥーランドット』に、ゲルギエフは深い愛着を持っているように思えた。『ボリス・ゴドゥノフ』や『戦争と平和』同様、オペラはしばしば「伝えなければならない物語」を伝える媒体の役目を果たす。トゥーランドットの音楽的な喜悦感は、ただ快楽的に流れるのではなく、しっかりとした「根」によって碇を下ろされていた。
 ラストシーンは、かつてゲルギエフがザルツブルクで採用したルチアーノ・ベリオ版ではなく、ハッピーエンドを強調するアルファーノ完全版が使われ、竜を思わせる華麗なヴィジュアルが美しい効果をもたらしていた。「竜」とは生命の輪廻と、永遠の繁栄をシンボライズしたもの。王子を受け入れ「愛」を選んだトゥーランドットに相応しい、祝祭的な喜びの場面だ。このように、終始一貫して音楽の邪魔をせず、的確なイメージで舞台に雅やかさをもたらしていた演出も、とても納得のいくものだった。

文:小田島久恵

posted by Japan Arts at 10:38 | マリインスキー・オペラ2011>NEWS | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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